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朝日新聞とパール判事

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


いかにも朝日新聞らしい社説
平成19年8月18日土曜日晴れ
 今日の朝日新聞の社説はいかにも朝日新聞らしい社説でした。完全保存版として残すべきではないでしょうか。
以下引用
パル判事_心配な安倍首相の言動
 安倍首相は19日からの外遊でインドを訪問する際、東京裁判(極東国際軍事裁判)の判事を務めた故パル氏の遺族に会う予定だ。
 パル氏といえば、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判でただ1人、東条英機元首相ら被告25人全員について「無罪」の少数意見を書いたインド人判事である。
 敗戦国を裁く戦勝国の正当性を問いただしたパル氏は、敗北に打ちひしがれる日本人の間に共感を呼び起こした。一部では、侵略の過去を弁護する「日本無罪論」の象徴として偶像視されてきた。

 戦後しばしば日本に招かれ、最後の訪日の際には勲一等を受けた。そのときの招待に動いたのが、安倍首相の祖父である岸信介元首相だった。
 そのパル氏の遺族に会うことについて、首相は「日本とゆかりのある方。お父様のお話などをおうかがいできることを楽しみにしている」と語っているが、そんな単純な話ではない。

 旧日本軍の慰安婦問題や靖国参拝をめぐって国際社会の視線が厳しい中で、首相の行動は、東京裁判と日本の戦争責任を否定するかのようなメッセージを発することになりかねない。
 とりわけ安倍首相が不信感を持たれるのは、これまで東京裁判を否定する見方に共感を寄せてきたとみられているからだ。首相就任後の国会答弁では「国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない」と語り、個人としての見解には含みを残した。

 確かに東京裁判は評価が割れている。事後につくられた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が戦争犯罪に加えられたり、原爆投下などの戦勝国側の問題が裁かれなかったりした。一方で、日本軍の虐殺や謀略が日本国民の前に初めて明らかにされた。戦争を裁く国際法を築く一里塚にもなった。
 裁判に功罪があるとはいえ、日本はそれを受け入れることで国際社会への復帰を果たしたのは間違いない。日本として、けじめをつけたのだ。そのことを政治指導者は忘れてはならない。

 見逃せないのは、日本ではパル氏の主張を都合よく解釈している面があることだ。一部の保守系の人たちは、「日本には戦争責任がない」と受け止めた。
 しかし、パル意見書の趣旨は、当時の国際法を厳密に解釈すれば、侵略戦争の指導責任を問うことはできないという法律論である。現に、パル氏は南京虐殺などで日本軍の行動を厳しく批判した。日本には法的責任はなくとも、道徳的責任があると認めている。

 生前のパル氏と面識のあるインドの代表的知識人、アシス・ナンディ氏は「パルを日本軍国主義の正当化に使うのは間違いだ」と言い切る。
 安倍首相はそうした
パル判事の全体像を理解しているのだろうかパル氏の主張をつまみ食いして遺族と語り合うようなことだけは、厳に慎んでほしい。
引用終わり
2007年08月18日(土曜日)付朝日新聞社説

 極東軍事裁判とはどのようなものであったかは多くの本が出版されています。
 戦後、アメリカ軍が我国の情報検問と洗脳をやっていた事、そしてそれをわからないようにやっていた事により、現在の「東京裁判史観」というものになっています。「東京裁判史観」というものについては、一九八六年に支那に媚を売るあの赤い後藤田正春が中曽根内閣の官房長官時代に「東京裁判については色々意見があるが、日本政府はサンフランシスコ平和条約で、東京裁判の結果を受諾している。政府が東京裁判史観に基づく歴史解釈をとらざるを得ないのは、条約によって法律的に拘束されているからだ」とウソを吐いた事があるが、「東京裁判と日本の戦争責任を否定するかのようなメッセージを発することになりかねない」と書く朝日新聞の社説はこれと同じウソをついている。

 「日本と安部首相」の事が大嫌いな朝日新聞の今日の社説は「パル氏の主張をつまみ食いして遺族と語り合うようなことだけは、厳に慎んでほしい。」と偉そうに書くが、つまみ食いというかウソを書いているのはどちらであろう。
 パール判事は、確かに日本人による残虐行為はあったが、ドイツと違って日本の場合は一般市民の虐待に関する「命令、授権または許可があたえられたという証拠は絶無」であり、捕虜虐待が政府の政策であったことを示す証拠もないとして、次のように判定している。
<本件の当面の部分に関するかぎり、訴因五四において訴追されているような命令、授権または許可があたえられたという証拠は絶無である。訴因五三にあげられ、訴因第五四に訴追されているような犯行を命じ、授権し、または許可したという主張を裏づける材料は、記録にはまったく載っていない。この点において、本裁判の対象である事件は、ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠により立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っているのである>(「共同研究 パル判決書 下」東京裁判研究会編 講談社学術文庫 昭和五九年刊)p五九〇
<本裁判所条例が犯罪としてあげるところは「戦争法規マタハ戦争慣例ノ違反」に止まる。条例は「戦争法規ノ導守ヲ確保シソノ違背ヲ防止スル適当ナル手段ヲ執ルベキ法律上ノ義務」の「無視」は犯罪としてあげていないのである。もし訴因五五をもって「故意ニマタ不注意ニ法律上ノ義務ヲ無視」することそれ自体が犯罪を構成することを意味するならば、その場合は、訴因五五で訴追されている犯罪は本裁判所条例の規定外の犯罪となり、したがって本裁判所管轄外となるであろう>(同じく「共同研究 パル判決書 下」東京裁判研究会編 講談社学術文庫 昭和五九年刊)p五四八


 東京裁判におけるこの訴因五三とは、戦争の法規・慣例の違反行為を頻繁にして常習的になすことを命令し授権し且つ許可することを共謀したというもの。訴因五四とはその違反行為を現実に命令し受験し且つ許可したかというもの。訴因五五とは戦争の法規・慣例の導守を確保しその違反を防止するに適当なる手段を執るべき法律上の義務を故意叉は不注意に無視したというもの。

 そして、同じく社説ではインドの「代表的知識人」とかいうアシス・ナンディ氏の言葉として「パルを日本軍国主義の正当化に使うのは間違いだ」と引用しているが、その逆の言葉も多くある。
 私の手元にある「自由と独立への道」(終戦五十周年国民委員会 平成七年刊)には下記のようなインドの識者の言葉が掲載されている。


 <日本は戦時賠償をしなければいけないとか、日本は戦争犯罪を犯したという告発に、パール博士は賛成しませんでした。博士は、インド政府の立場を充分に代弁したのです。我々は、全面的にパール博士を支持します。このことを、我々は現在にいたるまで誇りに思っています。過去と現在をとわず、インド政府はパール博士の判決を支持しており、それは我々すべてのインド人にも言える事です」(P・Nチョップラ博士 インド元教育省事務次官)同書P六一


 <極東国際軍事裁判は日本を侵略者として告発しました。しかし、この戦争を特別な角度から見たのはインドの判事だけであり、私はこれに同意するものです。この裁判は侵略者としての烙印を日本に押すための、イギリスとアメリカのプロバガンダでした。パール判事は極東軍事裁判の法廷は、日本を一方的な見地から煽った見方で裁判すべきでないと表明しました。
 何故、日本は戦争に突入したか、パール博士が八〇〇ページにわたる弁論を法廷に提出したのは、この問題に関してでありました。
 パール博士がこのような判定を下した基本的動機は何であったか。戦時の日本は侵略的であったとする国際的な見解を博士は覆そうとしたのです。日本が侵略者であるという見解をパール博士は信じませんでした。日本が望んだわけではないが、やむにやまれず戦争に踏み切ったことを知っていたのです。博士もカルカッタの人であり、ボースに多分に影響を受けていたのでしょう。何しろ、ボースは日本の協力を得たのですから。私が知る限りこれは最も公正な判断でした。
 実は、パール判事の判決はイギリスに大きなショックを与えました。極東軍事裁判でインドを代表するためにイギリスが指名した人物が『日本は無罪である』と主張したことは、全く予期しないことだったからです。>
(T・Rサレン博士 インド国立歴史調査評議会理事)同書P六一〜六二

 <かってオランダのローリング判事は次のように語りました『インドのパール博士は真のアジアの姿勢を代表する判事として法廷に登場した。フィリピンの判事はアメリカナイズされていて、その姿勢においてアジア的なものは何もなかった。それとは対照的にインドの判事は植民地関係に強い憤りを感じていた。ヨーロッパは二〇〇年以上にわたりアジアを握って離さず、アジアを支配する間、ヨーロッパが行なったことに対して、パール判事は強い敵意を抱いていた。これがパール判事の姿勢だった。従って、アジア人のためのアジアをスローガンとした日本の戦争は彼には心から同意できるものだった。』つまり、東京裁判では判決が二つでたのです。一つはヨーロッパとアメリカの判決で、もう一つはアジアの判決です。
 私は学者として、この二つの判決は同等と見なすべきであると思っています。それぞれが異なる文化から出た判決なのです。今こそ、この二つの判決を検討し、本当の判決を下そうではありませんか。我々には新しい判決が必要なのです。それはバランスがとれたものでなければなりません。従って、私は世界中の全ての学者に要求したい。公正な方法で、自由にして将来の展望に立ち、この東京裁判の問題を見直し、検討しようではないか、と。一方に偏った文化による、いわゆる多数決の判決、あるいは勝者の判決から抜け出し、世界平和の中に生きるために、この件を早急に取り上げる必要があります。東京裁判は正しい判決を下しませんでした。それ故に、パール判事の貢献は将来のために極めて大きいのです>
(M・L・ソンディ教授 ネール大学)同じく同書P六二〜六三

 ちなみに、朝日新聞は触れたくもないでしょうが、かって朝日新聞が掲載したパール博士来日の下記の記事があります。
 <パール博士は東京裁判の判決にあたって「この裁判の目的が正義の実現にあるのではなく、復讐心の満足と勝利者の権力の誇示にある」「原爆投下は最大の戦争犯罪である」と主張し、敗戦下の日本人に深い感銘を与えた人として忘れる事はできない>
 昭和四一年一〇月一一日朝日新聞夕刊
 そして、その記事には当時八〇才のパール博士より「日本の皆さんに」として下記のメッセージが掲載されている。
 <私がこの老齢、この健康で今度日本へまいりましたのは、日本の皆さんに対する私の敬愛の念を親しくお伝えするとともに、皆さんに東洋精神の尊厳さを再び確立していただくようにお願いしたいからでありました。東洋は今、大きな政治的ルネッサンスを迎えようとしており、東洋の諸国は日本に注目し、日本の奮起を期待しているのです。
後略)>

 今日の朝日新聞の社説がいかに日本人として歪んだ思想なのかがよくわかる。
 このような朝日新聞の歴史観ついて思うのは、故江藤淳氏がその著書「閉ざされた言語空間」に書いた「CI&E文書が自認する通り、占領初期の昭和二〇年から昭和二三年にいたる段階では、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムはかならずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるにはいたっていなかった。しかし、その効果は、占領が終了して一世代以上を経過した近年になってから、次第に顕著なものとなりつつあるように思われる」(P二七二)という文章の確かさです。
 江藤氏はこの名書「閉ざされた言語空間」(単行本としては平成元年八月文藝春秋刊 引用ページは私の手元にある平成六年第一刷として出された文春文庫版による)において、米軍が我国において占領政策として日本人の思想および文化を破壊するためにどのようなやりかたをしてきたかを、アメリカのウィルソン研究所に招かれて研究していた時に、アメリカ国立公文書館分室やメリーランド大学付属マッケルディン図書館のゴードン・W・プランゲ文庫などに保存されている一次史料により明らかにしています。


裏表紙